This sword is very active Cyoji midare with thick nioikuch like morning mist. FAX/メールは24時間受け付けております。 Special feature:Hosokawa Masayoshi was born at Kanuma Horeki 8th year 松井江もまた例に及ばず血に執着しているという狂気じみた性格であり、今のところ例外は稲葉家と細川家を行き来していた篭手切江と、古今伝授の太刀と地蔵行平である。 Shape : The blade is long and regulat thickness and width with deep sori and long lissali gourgeous shape. Copyright © 2015 日本刀販売の葵美術 All rights Reserved. He passed away at 11th Bunka age 57. 刀:白鞘入り(特別保存刀剣) 銘:作陽幕下士細川正義造(刻印) 天保八丁酉年二月日 (ひのととり) 当社では刀工の出来によって最上作、上々作、上作、普通作を記載しております 本作の出来は作陽幕下士細川正義としては最上作にランクされる作品です。 Boshi is midarekomi style. 展覧会 概要 5. 下記日本刀の保存刀剣鑑定書が届きましたので掲載いたしました。 肥後住藤原有宗 文政十三年十一月日(細川藩六千石藩士)、運寿兼友作 文久元年八月日 備州長船祐定 天文十七年八月日. 従五位下、越中守、従四位下、侍従、左少将、従三位、参議 この展覧会で観られる国宝 2.1. 刃長:75.8センチ Jigane :Koitame hada well grained with jinie attach  最上研磨済み 無鑑査研磨, ハバキ:金着一重 京博寄託の名宝 -美を守り、美を伝える- 3. この展覧会で観られる国宝 […], 情報|丹後郷土資料館「天橋立と丹後国分寺」2020/10/24~12/13[京都], 情報|根津美術館「根津美術館の国宝・重要文化財」2020/11/14~12/20[東京], 情報|大阪歴史博物館「埋忠〈UMETADA〉桃山刀剣界の雄」2020/10/31~12/14, 情報|泉屋博古館「泉屋博古 #住友コレクションの原点」2020/10/30~12/6[京都], 情報|永青文庫「―没後50年“美術の殿様”細川護立コレクション―」2020/9/12~11/8[東京]. 1837年9月4日モールスが有線電信機を発明し長距離間の連絡を可能にする電信装置の特許を申請した。 (念の為書き記すが古保は忠興が側室・藤(松の丸)との間にもうけた子であり、こちらとの血縁関係はない) sunagashi kinsuji work. (武徳編年集成), 豊永賢斎老 丹後宰相、丹後侍従、丹後少将 磁州窯[…], 目次 1. この展覧会で観られる国宝 3.1. This sword is Soden Bizen like Koto blade  Cyogi. 淡路守護細川氏の本拠地だった城館跡 淡路島の南側、中心部にかつて鎌倉幕府以降、淡路守護の居館があったと伝わります。初代は横山時広だったとされます。 細川氏が勢力が強かったのは戦国初期の細川政元の時代までです。政元が暗殺されて以降は内紛で分裂し、守護代や重臣の介入が多発しています。 ... 日本刀の銃砲刀剣類登録証について 先日ヤフオクで登録証付きの日本刀を購入しました。 浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版、2014年) P112-116・280-282. 交付年月日:平成26年9月20日 (We divide 4 sections for each sword as Saijyo saku, Jyojyo saku Jyo saku and regular saku) 松井江(刀剣乱舞), ブラウザゲーム『刀剣乱舞』に登場する刀剣のうち、細川幽斎・忠興親子の所持していたとされる刀、歌仙兼定・小夜左文字・篭手切江・地蔵行平・古今伝授の太刀と、その関係者の所持刀であった松井江が描かれた作品に付けられるタグ。. 細川氏(ほそかわし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。 本姓は源氏。 清和源氏の名門足利氏の支流。 名字は鎌倉時代に三河国 額田郡 細川郷(現在の愛知県 岡崎市 細川町周辺)に土着したことに由来する。. 篭手切江(刀剣乱舞) 地蔵行平(刀剣乱舞) 古今伝授の太刀(刀剣乱舞) 元幅:2.98センチ 目釘穴:2個 Width at the Kissaki : 2.22 cm or 0.874 inches. Aoi Art estimation paper : whole Oshigata. 浜口誠至「戦国期管領の政治的位置」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年), 馬部隆弘「細川澄元陣営の再編と上洛戦」(初出:『史敏』通巻14号(2016年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年), 馬部隆弘「細川国慶の出自と同族関係」(初出:『史敏』通巻9号(2011年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年), 馬部隆弘「細川国慶の上洛戦と京都支配」(初出:『日本史研究』第623号(2014年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年), http://books.google.co.jp/books?id=l0_IjfXMIh4C&pg=PT16&lpg=PT16&dq=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E7%9B%8A&source=bl&ots=ea-_AxQydP&sig=4kdV8gdA2a80nnPAY6Qk6fSaorE#v=onepage&q=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E7%9B%8A&f=false, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=細川氏&oldid=80309398. 見本誌請求(無料)はこちらから 歌仙からは小夜に気を使わせた事を詫び、小夜はとぼけようとしつつも「風流(表情が明るい)」な事を告げられるなど、微笑ましい回想となった。 2016年11月17日のアップデートにより追加された7-4「江戸城内」を特定の構成で出陣すると、回想『九曜と竹雀のえにし 縁故』が見られるようになる。 この展覧会で観られる国宝 4. 尚々、此方よては不懸御目、御残多存候、肥後守に光と申御字を被下候、光忠ノ御腰物拝領、是又満足仕候、我々には正宗之御脇指、三斎には左文字之御わき指、三人共に大御酒をたへ、忝儀に候き、可御心安候、四月は以面可申候、以上 広島藩 浅野家のこと 2. 7-1「白金台」を、歌仙と小夜を加えた部隊でクリアすると、回想『九曜と竹雀のえにし 発端』が見られるようになる。 2020年10月号 This sword belongs to Saijyo saku(top)  ranking. 1837年(天保8年9月2日) 徳川家慶が征夷大将軍に就任した。, Katana in Shirasaya(NBTHK Tokubetsu Hozon paper) 関ヶ原の戦い以後、豊前小倉藩に転封された忠興だったが、領内で飢饉が発生。領民を救う為に金子が必要となった際、多くの名物と共に小夜を手放している。 (10/21発送) NBTHK Tokubetsu Hozon Token. WANDER 国宝 細川正守・池田鬼神丸国重・八幡山清平・若狭守氏房・一竿子忠綱・飛騨守氏房 長船(勝光、宗光、清光、則光)・出羽守行廣・月山貞一・輝広・三善長道・月山貞吉・奥州月山 他 惜しくも文化11年57歳で亡くなった事と細川一門を蒐集される愛刀家が多い為市場に出てくる事が少なく、是非御薦めしたい細川正義の最高傑作刀の一振りと言える作品です。, 時代背景: 1837年 (天保8年2月19日) 大塩平八郎の乱 The blade is polished by Mukansa Mr Kuroda in Kyusyu. 2020年4月のイベント「特命調査慶長熊本」では、地蔵行平と古今伝授の太刀が先行調査員として登場。しかし調査任務において地蔵が刀剣男士としての使命から逸脱したある行動に出た為、古今伝授は本丸への救援要請に一首の和歌を入れる。ストーリーが進むと歌仙相手に「やはりあなたを呼んで間違いはなかった」と語っており、これは所縁あるものへの符牒にしたと思われる。 なお乱藤四郎の持ち主である細川勝元(室町幕府管領。極化に際して修行先となった)は苗字は同じだが約1世紀ほど時代が異なっており、数えて五代の隔たりが存在する。 歌仙は割と言いたい事を言う一方、小夜はそんな歌仙を「ああは言ってもものすごい人見知り」と言って審神者達を驚かせた。 Also nice active Jigane with chikei. この展覧会で観ら[…], 目次 1. 反り:1.8センチ and a lot of Chikei along with jitetsu work. Sori :1,8cm or0.71  inches. 先幅:2.22センチ 国宝の一覧リストや公開情報など, 室町時代には管領家をつとめ、江戸時代には一族の肥後細川家が熊本藩主になり、明治以降は侯爵位を叙された名門の細川家。 総理大臣を務められた18代護熙氏は、陶芸や書画で多くの優品を制作されていますが、お祖父様の16代護立氏も美術への造詣が深く、日本美術だけでなく海外の美術品も蒐集されたそうです。, 今年2020年は、護立氏の没後50年にあたるので、その記念として縁の美術品を集めた特別展です。 護立氏は、10代の頃から絵画や刀剣の蒐集を始め、やがてパトロン的な立場で近代日本画家の作品を多く購入しています。 今回は1件の国宝と、前後期あわせて14件の重要文化財、7件の重要美術品を含む名品展です。 美術品だけでなく、護立氏の写真や大礼服など愛用品も展示されるようですよ。, 絵画は、白隠や仙厓などの禅画と、大観や観山、菱田春草などの近代絵画がありますが、前後期で大きく展示替えされるようです。 今年、永青文庫の所蔵品の中から、松岡映丘「室君」と平福百穂の「豫譲」の2件が、重要文化財に指定されました。 この2点はどちらも前期に出展されるようです。, 備前長船派の始祖とされる「光忠」作の刀で、本阿弥光徳が極めて「光忠」の銘と自身の花押を表に、裏に「生駒讃岐守所持」と、金象嵌で入れています。 明治33年(1900年)に、護立氏が小遣いを前借して最初に購入した刀だといわれます。, 期間:2020/9/12~11/8(前期~10/11、後期10/13~)休日:毎月曜(9/21は開館し、9/23が休館)時間:10:00~16:30(入館は30分前まで)料金:一般¥1,000、シニア¥800、大高生¥500公式サイト:http://www.eiseibunko.com/, ★新型コロナウィルス感染拡大防止のため、3/1で終了しました。 曜変天目茶碗は、2020年7月から三菱1号館美術館で公開されます。 目次 1. Based on "PukiWiki" 1.3 by yu-ji. その歌仙は古今伝授に対して「腹の底が見えない」と語るものの、同じ家に伝わった者同士の信頼を見せ、追い詰められた地蔵に対してもかつての主の後悔を語るなど、新たな一面が見られた。ちなみに極前と極後で古今伝授のことを「あなた」「きみ」と呼び分けており、道に迷った時にからかわれた時の反応など細かい所で差異が出ている。 Blade length : 75.8cm or 29.84 inches. He is quite well known sword maker making Bizenden and Sosyu den style. ・ミニ展示「大名細川家のステイホーム ―永青文庫の漆芸コレクション―」 2020年6月27日(土)~7月12日(日) ・夏季展「翁 ―大名細川家の能の世界―」 2020年7月23日(木)~8月30日(日) 禅機図断[…], 目次 1. Mekugi : 2 また、家名も全くの別流であり、非常に縁遠い間柄となっている。 さらに新田義貞に奉じられて鎌倉を陥落させた尊氏の嫡子・千寿王(後の室町2代将軍・足利義詮)を補佐するために下向し、義貞に対抗して鎌倉を足利氏に掌握させる。和氏と顕氏は、尊氏の命により四国に渡り、阿波国、讃岐国を中心に南朝方との争いを勝ち抜き、在地豪族の被官化を押し進めた。この時代に、細川氏は有力な守護大名へと成長する。, 和氏の嫡子である細川清氏は、当初将軍義詮の執事職(後の管領)として幕政の実権を握ったが、佐々木道誉の讒言により失脚した(康安の政変)。その後南朝方に属したが、一族の細川頼之に追討されて滅び、また顕氏の子・細川繁氏も急死したため、頼春の嫡子である頼之が細川氏で随一の実力者となる。代々幕府の管領に任ぜられることになる細川氏本家の京兆家は、子がなかった頼之の弟でその養子となり跡を継いだ細川頼元の後裔を指し(頼元の血筋自体は政元までで途絶える)、その他の有力な庶家・分家も、多くは頼之の時代に派生している。, 室町時代の細川氏は、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成することで、一族内訌の危険を減らし、これにより有力守護の勢力を削ごうとする将軍の干渉を排し、管領・有力守護の地位を保ち続けたのである。, 細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)は細川氏の宗家・嫡流であり、摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護職を世襲したと同時に、代々室町幕府の管領職に任命を受けたため、管領細川家(または細川管領家)ともいう。「京兆」とは右京大夫の唐名「京兆尹」のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来する。またこの官位から細川右京兆とも呼称される。前述の通り、本来細川氏嫡流で権勢を誇っていた細川清氏の失脚・滅亡後、清氏を討伐し管領として幕府と細川氏隆盛の礎を築いた細川頼之(清氏の従弟)に始まり、清氏の系統に代わって頼之の系統が細川氏の本家・嫡流となった。, 歴代当主の通字として、頼之の跡を継いだ弟の細川頼元に因む「元」(もと)、一部の人物は頼之に因む「之」(ゆき)の字を使用している。, 頼之は中国管領、四国管領を歴任し、讃岐・阿波・土佐など四国の分国化を進めた。中央では管領となって執政し、幼少の将軍・足利義満を補佐して幕政を統轄した。頼之は義満からの信任は厚かったものの、天授5年 / 康暦元年(1379年)の康暦の政変で一旦失脚する。しかし、領国の四国に渡り阿波を中心とする分国支配を堅持することにより敵対勢力を退け、やがて中央政界に復帰した。, 頼之自身は僧籍を理由に、実弟で養子(頼之に実子はいなかった)の頼元を京都の周囲を固める丹波・摂津の守護に推し、さらに管領にも推した。京兆家は同じく足利一門の斯波・畠山両氏とともに将軍を補佐する三管領(三管四職)、また室町幕府宿老として重きを成していく。, 室町時代中後期、畠山持国との権力闘争に勝利した細川勝元は、3度にわたり計23年間も管領職を歴任し、実力者の山名宗全(持豊)と手を結び畠山氏を弱体化させた。しかし将軍家や畠山家の家督相続問題などで畠山義就を後押しする宗全と畠山政長を後援する勝元は対立、東軍の総帥として足利義視を推戴して、宗全率いる西軍との間で11年に及ぶ応仁の乱を引き起こし、その途中に病没する。, 戦国時代前期の畿内は、将軍と京兆家を中心とした争乱が続く。勝元の子・政元は、明応の政変で10代将軍・足利義材(後に義尹、義稙と改名)を廃し、11代将軍・足利義澄を擁立して幕府の実権を掌握した。政敵の畠山政長も討ち、畠山・斯波両氏は没落し、京兆家が以後管領職を独占するようになり、細川政権(京兆専制)を打ち立て、畿内周辺にも侵攻し勢力を拡大して細川京兆家の全盛期を築く。しかし政元は修験道に心頭して女性を寄せ付けなかったため実子がなく(弟もいなかった)、澄之・澄元・高国の3人を養子に迎えたため(高国は後付けで政元存命時の養子は澄之澄元2人だったともされる。また、高国が実家の野州家を相続したために養子縁組が解消されたとする説[2]もある)、家督争いが生じ、政元は澄元を後継に据えようと考えたものの、永正4年(1507年)、不満を持った澄之派の配下に暗殺される。政元の死をもって頼元以来続いた京兆家の嫡流の血筋は途絶えることとなった。, 澄之が京兆家の家督を継ぐも、その後すぐに澄元と高国が結託して澄之を討ち、澄元が家督を継いで管領となる。しかし、政元暗殺を好機とみた前将軍・足利義尹(義稙)を擁する西国の大大名大内義興(周防守護)が上洛軍を起こし、澄元と不仲になった高国がこれと結びつき、翌永正5年(1508年)に高国は将軍義澄と澄元を京都から近江国(後には阿波国)へと追い落として義尹(将軍復帰)と義興(管領代に就任)を迎え入れ、家督を継ぎ管領となった。その後も高国派と澄元派に分裂し長期に渡って対立を続けることとなる(両細川の乱)。, 約十年間在京しその軍事力で政権を支えていた義興は、高国と争っていた明貿易権益を得て永正15年(1518年)に周防に帰国した。その後も高国は、一時澄元(とその重臣の三好之長)側についたこともある将軍義稙と不仲になって見限り、新たに足利義晴(病死した義澄の子)を将軍に擁立するなど、管領として幕政を握り京周辺を支配下に置いていた。大永5年(1525年)、高国の隠居後に子の稙国が家督を継ぎ管領を継承したが、半年ほどで病死したため、翌年畠山義堯が管領となった。京兆家による管領の独占継承はここに一旦途切れたが、幕府の実権は京兆家家督を再承した高国が引き続き持った。, 大永6年(1526年)、高国が家臣を謀殺したことをきっかけに高国への反乱が起こり、その動きに乗じて今度は病死した澄元の子の細川六郎(後の晴元、この時13歳)が、軍を実質的に仕切る家宰の三好元長(之長の孫あるいは子)とともに、将軍義晴を擁する高国に対し足利義維(義晴の兄弟)を立てて阿波国から畿内へ侵攻した。六郎は高国を追い落として堺幕府(堺公方)を樹立し、さらに享禄4年(1531年)には高国を滅ぼし(大物崩れ)、その大きな功労者であった三好元長が台頭するとこれも討ち、和睦した将軍義晴を擁して家督を継ぎ管領に就任、幕政と京都を握った。その後も、晴元は高国の弟の細川晴国や高国の養子の細川氏綱、宗教一揆の法華宗などとたびたび争っていたが、天文18年(1549年)、元長の子で実力者となっていた配下の三好長慶の下克上を受けて近江へと追われ、細川政権は崩壊した。, 主君晴元と対立する氏綱側に寝返った長慶は名目上氏綱を推戴し、氏綱が京兆家の家督を継ぐが、氏綱は実権を握れず長慶の傀儡状態となり、三好政権へと取って代わられることとなった。晴元はその後も将軍・足利義輝を擁して長慶との争いを続けるがかなわず、永禄4年(1561年)に長慶と和睦し、その2年後に没した(翌年氏綱も没する)。晴元失脚後の京兆家はかつての権勢をすっかり失って衰退し、代わって京・畿内は織田信長が上洛するまで三好氏の勢力下となる。また、これにより政元暗殺以降長年続いた京兆家を二分する内訌も終結に向かうこととなった。, なお、戦国期の室町幕府研究の進展の中で明応の政変以降の京兆家の当主が代々管領を務めたとする話は軍記物に由来する創作に過ぎず、実際には重要な儀式の際にのみに在任していた(京兆家は軍事力で京都周辺を掌握していたため、却って幕府官職を必要とはしなかった)とする見方が有力説として浮上し、大永元年(1521年)に足利義晴の元服を終えた高国が管領を辞職してから室町幕府滅亡まで、管領職はずっと空席のままであったとされている(従って、この見方に立つと稙国・晴元・氏綱および畠山義堯が管領に就任した事実は否定される)[3][4]。, 家督を継いだ晴元の嫡子細川昭元は、足利義昭に仕えた。後に織田信長に仕え、昭元から信良と名を改め、信長の姉妹を正室として娶り義兄弟として織田家親族となった。昭元(信良より名を戻す)の嫡子元勝(頼範)は、豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣では豊臣方となった。大坂の陣での豊臣家滅亡後は讃岐国に隠棲し、後に妹の嫁ぎ先の秋田実季を頼って常陸国の宍戸藩に赴き、そこで客分として迎え入れられた。, 元勝の嫡子義元の時に秋田氏の家臣に列し、子孫は陸奥国三春藩(宍戸から転封)の家老として仕えた。義元以降は、宣元(義元の子)、忠元(宣元の子)、孚元(三春藩家老・小野寺泰忠の子で忠元の養子)、昌元(三春藩主・秋田延季の七男で孚元の養子)と家督が継承されている。明治期の当主和元は小学校教員や巡査を務めた[5]。, 細川持賢を祖とする細川氏(京兆家)の分家の一つ。通字として主に「賢」(かた)を諱(名前)に使用する。基本的には分国を所領としておらず、初期には京兆家の内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようである。後に摂津国西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。政国、政賢と続いた。当主が右馬頭もしくは右馬助を官途としたことから、その唐名にちなんで典厩家と呼ばれるようになっていた。持賢は、京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も、9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。政賢は永正の錯乱に際しては、細川澄元に与して細川高国と対立したが、船岡山合戦で戦死する。その後は高国の与党で政賢の縁戚であった細川尹賢が継承した。尹賢は高国の大物崩れの戦いでの顛末を知り、細川晴元側に寝返ろうとしたものの許されず殺害された。, 細川氏綱は、高国の後継者として晴元と対立を続けた。氏綱は、晴元から離反した三好長慶に担がれて晴元を倒し、室町幕府最後の管領となったものの傀儡にすぎなかった。その死後は氏綱の弟の藤賢が典厩家の当主となり、将軍・足利義昭に仕えた。義昭が織田信長と反目し挙兵した際には、義昭とともに抗戦したが降伏した。その後は信長に臣従し近江坂本城の守備を任された。, 信長没後、藤賢は豊臣家に仕え、以降も戦国諸侯に招かれながら細川元賢(もとかた)、重賢(しげかた)、乗賢(のりかた)と続き金沢藩士(加賀前田家家臣)として幕末に至った。, 細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の弟である満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。また、細川政春が弟の春俱の家系が断絶した後に備中守護を継承すると、その官途名である安房守から、房州家とも呼ばれるようになった[6]。備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、典厩家第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。, 政春の子・高国は、管領・細川政元の養子として京兆家に入り、その家督争いに躍り出ることになる(なお、高国は政元の存命中に1度は政春から野州家の家督を継いでいたが、政元没後の混乱で再び後継候補に浮上したとする説もある[2])。また通政は、戦国時代にその所領の維持を図ったのだが、出雲国の尼子晴久の圧迫を受け伊予国へ逃れた(通政については非実在説もある)。通政の甥とされる通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長府藩家老として幕末に至った(長府細川家)。, 阿波守護家は14世紀中頃、細川頼之の弟・詮春に始まり、代々の当主が阿波守護を代襲したことに由来する。また、讃岐守を称したことから讃州家ともいう。なお細川成之の頃から讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも称した。同時に阿波細川氏とも呼ばれる。, 他の細川庶流家とは異なり、室町幕府の相伴衆を務める家柄で、当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い家格を有していた。そのため京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称されている。数え方によって変わるが10代で終わる。, 詮春から数えて4代目の持常は、6代将軍・足利義教からの信任が厚く、永享12年(1440年)に戦死したとされる一色義貫に代わり三河守護職も兼任した。しかし一色義貫の死が義教の陰謀によるものであったため、持常とそれを継いだ成之が三河国に守護権を確立する際には、一色残党の激しい抵抗に遭い、多大な犠牲を払った。, 義教の信任厚い持常は、嘉吉の乱で義教が暗殺された後、赤松満祐征伐のため播磨国に出兵するも、山名持豊(宗全)に一歩遅れる形となり、播磨守護職は山名氏のものとなる。播磨を巡る山名氏と阿波細川家の潜在的対立は、持常の後を継いだ成之の、赤松家の再興運動への助力という形になって現れる。これらのことは、当初は友好的な関係にあった山名氏と細川京兆家との関係悪化を招き、応仁の乱の遠因ともなった。, 成之は、応仁の乱では東軍として京兆家を盛り立てたが、細川勝元の没後、政元の時代においては、権力集中を図る京兆家としばしば対立し、摂津守護代の薬師寺元一の反乱に関与するなどした。成之は孫の一人である澄元を、京兆家・細川政元の養子に送りこむことに成功するものの、それは畿内の争乱をさらに激化させることになり、政元暗殺とその後の「永正の錯乱」へと事態は進展するのである。, なお、成之の次子の細川之勝(後の細川義春)は備中守護の細川勝久の養子となっていたが、成之の嫡男の細川政之が早世したため、義春と改名し阿波守護家を継いだ。後に義春の子の細川之持が短期間であるが備中守護にも任じられている。, 成之自身は長命であったが、子である政之(1488年没)と義春(1494年没)に先立たれ、さらに永正8年(1511年)の成之の死の翌年には孫の之持が夭折するなど、短命な当主が続く。若年の当主が続く成之以降の阿波細川家においては、家宰の三好氏が台頭することになる。, 京兆家の細川政元の養子となった澄元を擁した三好之長は、畿内において細川高国と抗争を続けたが敗れ、澄元もまた京兆家として主導権を取り戻せぬまま夭折する。, 一方、之持の子の細川持隆は三好元長の補佐の元で成長すると、澄元の子の細川晴元や元長と協調し足利義維を擁立し、堺公方とするなど京都の幕府と対立を続けた。, 堺幕府の解体後は、義維を阿波に迎え、平島公方としている。江口の戦いで晴元が没落し、三好長慶が将軍足利義輝をも追放して畿内の実権を握ると、義維の将軍擁立を主張したが、義輝との全面対立を望まない長慶の弟の三好実休と対立し、天文22年(1553年)、実休により暗殺されることになった。, なお、之持から持隆にかけての阿波守護家の動向には不明な点が多く、異説として之持は天文年間初頭まで健在であったとする若松和三郎の説[7]や持隆は之持の子ではなく澄元の子(晴元の弟)とする馬部隆弘の説[8]が出されている。, 持隆の子・細川真之は、実休とその子の三好長治の元での傀儡でしかなかった。長治が悪政により阿波を混乱させると、真之は新たに台頭しつつあった土佐の長宗我部元親と手を結び復権を図り、長治を滅ぼしたが、天正10年(1582年)に長治の弟である十河存保(異説によれば、長宗我部元親)の攻勢を受け自刃し、阿波守護家は滅亡した。, 和泉国では細川氏の庶流二家が守護職を世襲した。これは一国の半分ずつを分掌する半国守護制ではなく、共同で管掌する守護二人制だった。両守護家の祖は、細川頼長(頼之の甥)と細川基之(頼之の猶子)である。前者を上守護家、後者を下守護家と呼んだらしい。, 守護二人制の採用理由として、和泉国は畿内の外港・商業都市堺を抱える重要地域であるがゆえに権力の分散を目的としたとも考えられる。ただし、頼長と基之は和泉守護となる以前から備後、土佐の守護も併任されており、別に何らかの理由が存在した可能性が推測される。, 細川頼之の弟・頼有の子孫が14世紀中頃から和泉守護を代々務めた。頼有のあとは、頼長(よりなが)、持有(もちあり)、教春(のりはる)、常有(つねあり、教春の弟)、政有(まさあり)、元有(もとあり)と守護職を世襲した。通字として主に、初代当主に由来する「頼」(より)、「有」(あり)が使用された。また、持有・教春・政有(と後述の晴貞・藤孝)は足利将軍の偏諱の授与を受けている。, 戦国時代期の当主・細川元有は明応4年(1495年)、和泉下守護家とともに紀伊守護・畠山尚順と同盟を組み、管領・細川政元と敵対していたが、両守護家は政元に大敗し恭順した。しかし、そのために畠山尚順に攻め込まれてしまい、明応9年(1500年)に元有は戦死、その子・細川元常が跡を継いだ。元有以降の当主は通字として京兆家と同じ「元」(もと)を使用、また家督継承者は代々通称として「五郎」を称した。また、元常の長男・細川元春(もとはる)は嫡子から外れて分家している(地下家の一覧とこちらを参照)。, 細川元常は、永正8年(1511年)の船岡山合戦で阿波細川家の細川澄元に味方したが、細川高国に敗れ阿波に逃れた(両細川の乱)。その後、細川晴元が享禄4年(1531年)に上洛すると元常は和泉守護に返り咲いた。ただし、実際には実弟の三淵晴員とともに将軍・足利義晴の近臣となっており、和泉守護は天文年間の早い段階で元常の子・細川晴貞が継いだ。, 天文18年(1549年)、細川晴元の重臣・三好長慶が裏切って細川高国の子・氏綱に味方し晴元の政権を倒した(江口の戦い)。この時、守護代の和泉松浦氏も三好長慶に味方したために晴貞は和泉を追われた。晴貞没後、家督を継いだとされる細川藤孝は元常の弟・三淵晴員の次男で、元常の養嗣子になったというのが通説であるが、年代の整合性から元常の子・晴貞の養子と見る説もあり、また近年は和泉上守護家を継承したのではなく将軍・義晴の近臣であった細川晴広の養子だったという説もある(晴広の系譜に関しては後述)。, 細川藤孝の後、和泉上守護家の流れは藤孝の三男である幸隆(幸孝)が継いだ。その後、家督は細川忠興の五男である長岡興孝(おきたか)が継ぎ、肥後細川藩の重臣として続く(後述の長岡(細川)刑部家を参照のこと)。, 頼之の猶子・基之のあと、細川持久(基之の孫)、勝信(基経)、政久が守護職を継承した。明応4年(1495年)、政久は和泉上守護家と同盟し、その上で畠山尚順と結び細川政元に対抗したがその後は恭順した。しかし畠山尚順に攻め込まれ戦死した。その後、細川政元は畠山尚順を河内で破り、和泉に攻め入って支配を回復したが、そののち和泉下守護家がその地位を保つことはできなかった。, 細川頼之の末弟・細川満之を祖とし、頼重、氏久、勝久と代々備中国の守護職を継承した。他に伊予国新居郡などの領有の記録もある。, 備中国はもともと京兆家や阿波守護家など、他の有力守護家の影響が強く及んでおり、庄氏を初めとする国人統制も困難を極め、頼重などは永享3年(1431年)に謎の狂死を遂げている。勝久の代に、庄元資(伊豆守)との争乱が勃発し(備中大合戦)、これは備中守護家が勝利したが、国内の混乱はますます加速する一方で、以後次第に勢力を弱めていく。阿波守護家から迎えた勝久の養子である之勝(細川義春)は、実兄・政之の死に伴い後に阿波守護家に戻ったため、勝久の系統がその後守護に就任することはなく、事実上守護家は断絶した。, 以降は阿波守護家の細川之持(義春の子)が一時的に備中守護を継いだ後、永正の錯乱の際に実の弟である細川澄元を支持した之持に対抗するために細川高国が細川国豊(細川春倶の子)を新しい守護として派遣した[9]。国豊とその子が早世すると、高国の実父である野州家の細川政春が備中守護となるが、永正15年(1518年)以降、備中守護の任命は長く為されなかった。備中は戦国に突入したのである。, 細川和氏・頼春の弟師氏を祖とする。その子氏春は、従兄の清氏(和氏の子)が南朝に降伏すると、それに従って幕府方と戦った。子孫は代々淡路守護である一方、奉公衆の一番番頭も務めて将軍の近くに仕えた。戦国時代初期に細川尚春が三好之長に滅ぼされて断絶した。, 細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の従兄弟の細川顕氏が陸奥守に就任したことが由来とされ、大外様ともいわれた家系のこと。顕氏の兄弟はそれぞれが武勇に優れ活躍したが、彼らは顕氏に先立ちこの世を去る。残った顕氏は讃岐、土佐などの領国化に励み実力をつけ、嫡流の和氏の死後、その弟の頼春と並んで細川氏の実力者となる。顕氏は観応の擾乱で活躍するも、やがて頼春と前後して死去する。顕氏の実子の繁氏は顕氏の領国を受け継ぎ、有力者として武功を積むも急死する。その後は、和氏の子・業氏が後を継いで存続したが、讃岐など領国は頼春の子・頼之に押さえられたため、以後の代々の当主は京兆家に協力的な立場をとった。, 細川満経は、京兆家の細川満元の片腕として政界で活躍した。また、業氏は3代将軍・足利義満、業氏の子孫の晴経は13代将軍・足利義輝の加冠の際の理髪役を務めるなど、有力な幕臣であった。, 和泉上守護家の藤孝の子・忠興が、戦国時代末期の当主・輝経の養子となり形式的には奥州細川家を継承したので、近世大名の肥後熊本藩細川家は奥州家の末裔と言うこともできる。もっとも、藤孝が室町幕府の滅亡後織田信長に属して姓を長岡に改めてからは、忠興もまた「長岡与一郎」と称し、本能寺の変の後に藤孝が隠居すると、その所領である丹後12万石を継承しているので、藤孝の嫡流であることにかわりはない。, なお、忠興の養父とされる輝経は後に忠興の重臣である松井康之(妻の弟)に招かれていたが、関ヶ原の戦いで偶々九州に派遣されていた康之が居城の久美浜城に帰国できなくなると、西軍の誘いに乗って久美浜城を乗っ取るが、西軍の敗北後に罪を問われて自害したと伝えられている(『松井家記』)[10]。, 代々の当主が遠江守を称したことから、この名が定着した。また、遠州家とその分家は上野氏とも称しており、「細川」と「上野」の名乗りが併用されていた[11]。土佐守護代家ともいう。土佐守護は細川家の嫡流である京兆家が代々つとめたが、管領でもあり京都住が常であったことから、庶流であるこの細川家が実際に土佐に在国し守護代を代々つとめた。細川頼益(よります)以降の通字は「益」(ます)、満益(みつます)以降は足利将軍家の偏諱を受けている(系図中の太字部分、細川国益(くにます)は細川高国の1字を受けている)。頼益は細川成之の母の兄でもあり、香美郡田村(現・南国市田村)に守護代館(=田村城)をおいた[12]。

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